このところ新聞の投書(のスクリーンショット)を読み、なるほど「人は与えるために生きる」ことを理解した。その投書は今までさまざまな物を受け取って生きるコレクション魂が人間の悲しい性だと思っていたところ、いずれ死ぬ人として自分の集めた物は自身と共に消えるが、それが有形無形であれ自分の与えたものは残るのだと気付いた様を描いている。後生に与えるものを考え生きることはきっと大きな意義があるだろう。若輩ながら先輩方のこういった投書に考えさせられることがあった。
さて自分は毎日SNS、主にTwitterを利用しなるべく特定の誰かを不安にさせたり傷つけたりしないような他愛もない投稿をしている。相互につながりのあるアカウントは大学や高校の友人がほとんどであり、自分がそういった人々に対してのネガティブな発言をしてしまうとその場の雰囲気を悪くしてしまう。誰も傷つかないことをするのが社会に対する「やさしさ」と思っていた。
元来、Twitterは「友人・知人とのコネクションが消えないようにするツール」である。これは誰かの目線関係なく、自分が「今なにしてる?」かを発信することで消息を知らせるものであった。その人がどうしているか知るためにその人の足跡をたどる(Follow)ことができるツールなのだ。基本的に自分がたどって欲しくない足跡は残さない使い方になる。それがTweet、即ち自分を発信する為の「さえずり」であった。
日本でのTwitterの爆発的な流行はまだこの時点では起こっていなかった。2010年になる前くらいのTwitterは自分を含め目新しいものに手を出してしまう情報系オタクと、発信ツールとしての有用さを見いだした少数の有名人が時々さえずっているだけであった。それから少し経ち、Twitterは「つぶやきツール」に変容した。これまた自分を含めた情報系オタクは情報が「早い」ことが好きなのだ。次第に自分が何をしているかという行動中心の発信では無く、何を考えているかなど心情中心のより「発信に早い」情報をさえずるようになった。この頃からTweetはさえずりのような広範囲への発信に代わり、内輪や自分自身への「つぶやき」になった。この少々閉鎖的なコミュニケーションが日本人の感性に合ったのか、はてまて10代のような大して発信する行動をしていないユーザーに対するハードルが押し下がったのか、Twitterは若者なら誰もが使うツールとなった。そしてユーザーは二極化した。今までのように行動や自分の今後の予定を発信するもの、そしてただ漠然と現在を垂れ流すものである。さらにより後者が市民権を得、前者のようなユーザーはある程度情報の流れがゆったりとしたFacebookへと移行した。それでもまだTwitterに住み着いていたユーザーは趣味垢・リア垢とアカウントを分けることで順応していった。
この変容が何を生んだのだろうか。心情を吐露する場となったTwitterにFollowの観念は失せ、奇妙な「やさしさ」に包まれたのである。これはリア垢によくあてはまることである。それは特定の集団内、例えば高校において、同じ行動を共にするものたちがFollow-Followerの関係になったとき元来のFollowではなく「すでにそこに在る」Watchのような意味へとなったこと、そしてそこにある種の遠慮が発生するようになったことと言い換えられる。同一の生活共同体の中にいる限りほぼコネクションは消えないものであるが、今度はそのコネクションの維持に躍起になり始めた。当然Watchは社会の目のように同調圧力をかけるだろう。そして個人が集団を形成することを忘れ、集団に属す個人と成り下がった人々は、集団を崩さないように、取り残されないようにと、自らの個(棘)を捨て「やさしく」なっていったのだ。行き場を失った個はまた別のアカウントで発揮され、そして押さえつけられ、再び行き場を失う。こうして忖度忖度としているうちに、SNSに疲れた人々が生まれる。また人々の承認というやさしさを得る為に虚偽の発信をしたり、「やさしい」人であるために本当に相手の為になることをしなかったり、そうと思えばありあまる棘で問題を起こした人を執拗に叩く。それが平和で安定的な社会に対するやさしさの還元と思っているからだ。もはや、これはやさしさの病と言えよう。
結局は皆、自分が承認を受け取ることに躍起になってしまった。そして自分と同じフィールドにいる人を承認することだけがやさしさであると勘違いしてしまった。ここに奇妙な「やさしさ」の雰囲気が生まれた。なにも承認だけがやさしさではない。傷つかないようにと気遣うだけがやさしさではない。悲しいことに、本当にやさしい個人が社会を形成しているのでは無く「やさしい」社会が個人を形成している今、奇妙な「やさしさ」を変えられるだけの成長という成長はないだろう。
冒頭に人は与えるために生きると引用した。今、自分は、みんなは、本当の意味でやさしさを人々に与えることが出来ているだろうか。その「やさしさ」は自分が承認を受け取るためだけの踏み台になっているのではないだろうか。