デジタルアートに関する評

授業でやったこと 書いたことアーカイブ。LevManovichという芸術家の、昨今のデジタルアートに対しての意見に書評を書いた。以下がLevManovichの投稿。

In this post, I will talk about “digital art”; the differences between “high [digital] art” and “popular digital art,”…

Lev Manovichさんの投稿 2020年5月27日水曜日

Lev Manovichのブログなので当然Lev Manovichのかなり主観的な考えが述べられており面白い。特に人の考えなので肯定も否定もできない(か、したくない)のだが、このLev Manovichの考えを基に我々も改めて考えないとならないことを実感する。例えばアートとより低次のものを分かつ姿勢は実は変革期にあるのではないかということだ。Lev Manovichに限ったことでは無く、18世紀あたりのフランス絵画の世界でのサロン、ごく最近で言うならチームラボの展示にこれはアートとは呼べないなと言っていた我々も同様で、基本的に前時代的なアートを参照して今のアートを認識している。そもそもその時代のアートは時が(大なり小なり)経ってから定義されると狭義的には考えられて、あるいは世間が暗黙的に認めている。ただアーティストは今を生きるために積極的にそれを否定せねばならない。つまり新しい作品はマイナスからのスタートが常である。だが否定されがちの最近の’’アート’’、むしろ安直に人々を感化することのできるインタラクティブ’’アート’’はよほど難しい意味を込めた保守的なアートよりも公益的な本来の意味でのアートに近いのではないか。

 作品が評価されるにはもちろん時間がかかる。ごく最近の情報の進化の前は、物理的な伝搬の遅さが評価の形成の壁であった。時間のフィルタリングが多くの凡庸な作品をふるい落とし、逆に個人の主観によって捨てられたゴミの中から光る珠を発掘してきた。その歴史を見るとアートは現在時間のみで言うことは出来ない。ただ、インターネットがこの壁をなくし、修練をさほど必要としないツールが誰でも作品を作れる手助けをしてくれる時代になった今、評価は現在時間に依存するようになりさらに爆発的にアートたり得る作品の母数が増えた。アートの了解は変わらざるを得なくなっているだろう。「傑作」は時代の総意であるところを考えると今まで通り傑作は時間をかけて判断される。しかしアートそのものは全てがアートと呼べる、総アート時代なのかもしれない。無論傑作こそがアートと呼ばれるきらいもあるが…。

 結局のところ、芸術にはどこか修練を必要とする文化があって、そうあってほしいという心情も少なからず有している。これが昨今のアートが「装飾品」と揶揄される所以でもある。優秀なツールに多少の金を出せば素人でもそれなりのものが出来てしまうため、ハイアマチュアとプロの境目がかなり小さくなってきている。小さくなっていくギャップは特にアーティストを焦らせ、追い込む形になってきている。そうすると、よりハイアマチュアに近いような作品を揶揄・否定・排斥することでようやくプロとしてのアイデンティティーが成立するようになる。ともすれば近いうちに機械が様々な作品を自発的に制作するようになると思うが、これをアートと言うべきなのかは論争を呼ぶのではないか。恐らくプロが特に機械作の芸術を嫌うのではと思う。あるいはまた、昔の民芸家具のように個を消す方向に向かうかもしれない。生き残るために群れを組むのは芸術家としては気持ちの悪いことかもしれないが、自然ではある。 Lev Manovichは多くの作品が意味を持っているかのように装うと述べているが、この膨大な作品が共有されある意味で消費される世の中では、意味づけをしないと埋もれていってしまう。アーティストは必死にそれに抗うためにこじつけと言って良いまである意味づけを行うのだ。恐らく何らかのストーリーを押しつければ嫌にでも印象に残るから、大衆の記憶に残すためには仕方の無いことかもしれない。悲しいことだなと思った。