働いて、何があるのか

こんばんは。
考えるシリーズ第2段です。

今回は働いて何があるのか、何の意味があるのか、です。

昨今は働き方が昔と大きく変わりました。
やれブラックだのハラスメントだの、いろんなことが騒がれています。
それに合わせて社会は「優しく」なっています。
「優しい」というのは良いことばかりでしょうか。
僕は「優しい」はその反面、「動きづらい」ということを意味しているときがあると感じます。
現在の「優しい」社会は、目まぐるしく変わった平成を生きた若者と、それについて行けず古い価値観や観念を持つ世代がぎこちなく互いを探り合ってなんとか機能しています。
そこのバランスが悪く、動きづらく感じてしまいます。
大人は正せず、若者は甘えてしまう。そして一度甘さを知ったらそうそう動けません。
優しさの裏で何かが衰退しているのではないですか。

どんよりとした不景気が続き、新しく行動するポジティブさが日本から遠のいた気もします。
今を維持するのに固執して変化を嫌う上の世代や、それに抑圧され挑戦をすることを嫌うようになった若者が増えてしまった。
日本全体に元気がないのです。
そんな社会を変えようと汗水たらして働いても賃金はあまり上がらず、モチベーションを失いサボることを覚える…
まるで社会主義の暗い部分ですね。

昔の日本のいいところ、「終身雇用」「年功賃金」
それは昔の話です。いつまでたってもそんなこと言ってられないはずなのに…
景気が良かったとき自分はなるべく少なく仕事をして、できるだけ同僚と同じくらいの給料をもらうなんてこともできました。
コネ入社でまるで仕事ができないやつもいて、会社も会社でそれを切ることもできなかった。
そんな環境の中でも、人々は賃金のアップや評価をモチベーションにどんどん仕事をできたのです。

今はなかなかそうも行きません。賃金は上がりにくく、評価も「自分はこれだけ苦労したから」というのが基準となってしまい、「苦しんでいる人=えらい」図式が出来上がっています。
間違ってはいないです。苦しい思いをしても頑張れる人は評価を与えるべきです。
しかし正しくはありません。
例えば上の世代とは主にコンピューターでできることが大幅に増えました。
文明の利器を最大限まで活かし効率化することができるなら、苦労していなくてもむしろ仕事ができている事があるのです。
そこにおいて時代錯誤なやり方で評価を下すのはあまりにも馬鹿らしいことです。

 
そもそも、なんで働くのでしょうか。
仕事をしなくても日本なら生きていくことができます。
毎月貰える生活保護費は社会人として頑張って働くよりも楽に、しかも多く貰えることもあります。
じゃあなぜ…ここからは自分の主観になってしまいます。

働くことで人間として生きられるのだと思います。
本能のままに獲物を取って食べて寝る、ということもできなくは無いです。でもこのご時世ほぼありえません。
人間は社会性のある動物です。平成が終わろうとしている今、一人では生き長らえることができません。
他の人のために何かをする、つまり働くということが自分を支えるのじゃないかと考えています。
生きるために働くとか、働くために生きるとか、それは感じ方次第です。
しかしどんな職種、どんな仕事量でも働かないものは人間として認められないでしょう。

そして人間として社会と関わり合って仕事をしてはじめて、幸せが得られるのではないかと思います。
仕事なしに幸せは無いと思います。

宝くじを当てたら仕事を辞める人もいると思います。遊んで暮らすのもいいと思います。
でもきっと楽しくない。ありがたさが無い。
僕なら、宝くじを当てても仕事したいです。つらい仕事だったとしてもです。

 
次、働いて何の意味があるのかです。
働けど働けど評価も賃金も上がらない、相談すれば「努力不足」「もっと働けば評価する」。
辛いと思うときふと働く意味を疑問に思うことがあります。

正直、働くとお金がもらえる。生活ができる。たくさんお金が入ったら豊かになる。
それでお終いなのかもしれません。
でもそれで終わりなんて寂しく感じるものです。
せっかく働いて生きているんだから、自分に働いて得られる何かを見つけたいです。
辛い中にそういう何かを見つけたとき、すごく幸せになれると思います。

僕が仕事、タスク、なんやかんやに追われて辛くなったとき思い出す言葉を置いておきます。
陶芸家の河井寛次郎さんが残した言葉です。

「新しい自分が見たいのだ 仕事する」

すごくいい言葉です。新しい自分は止まっていては見つかりません。その通りです。