オープンスペースの10年を巡って 評

 メディアアートを考える研究室に所属していながらメディアアートとはなんぞやと考えてしまうこの頃であるが、それは⾼名な⼈であっても同じでありそうだ。なんとなく安⼼してしまう⾃分もいたが、評としてまとまらないので考えを少し述べる。

 ⾃分としてはメディアアートとそうでないものに⼤きな違いを必要としない考えだ。アートとそうでないものの違いは⾒据えておきたいが、メディアを強調する必要性は感じない。この意味では冒頭に述べられているメディアアートという意識の希薄化の問題の⼀部になっている。メディア考古学を学んで思ったことでもあるのだが、メディアとして新しいものが出てそれが⾼価なコンピューターなりフィルムなりで⼀般的な⼈々と隔離されているときはメディアそのものを使ったアートも存在し得た。しかし現在はというとメディアを通さねば情報を⼿に⼊れられないというほど多種多様なメディウムが⽣活に⾷い込んでいる。そうすると全てのアートはメディアを⼀旦経由して⾃分に達する。ここでソーシャルというものを考えてみる。どの時代においても社会と1 ⼈の⼈間個⼈は切り離せないが、その意味でソーシャルなアートとして意識されるだろうか。現在ソーシャルアートと呼ばれているものはほぼ社会を変えようという意識の下制作される。そしてアート全て、社会を通って知覚されるということは当たり前の意識として捨象される。これを考えると、もうこの我々の⽣きている時代においてメディアを強調することは難しいのではないか。この対談でメディアアートは意識を変える可能性を呈⽰することに意義を持たせているように書かれているが、逆に⾔うとそれこそが残されたアイデンティティーの⼀つなのではないかとも思える。(それを既に承知の上での議論ではあるだろうが…)

 インタラクティブアートについて述べられた段では観客⾃⾝に読み解きのプロセスを与え、それを核としていることが読み取れる。しかしながら果たしてインタラクティブアートを⾒に来る客たちがそこまで考えているだろうか。多くの綺麗な⼤規模展⽰、我々の近くで⾔えば学祭の2研企画もその⼀部だが、感じさせたいことを意識して表現し実際に感じ取って貰うことは難しい。もちろん⼀部の⼈々に影響を与えることができるならそれは芸術としての意義があったことになるが、例えばインタラクティブアートにおいてそれをメディアアートとくくるならば、メディアをその利点として数え上げることは適わないだろう。メディアアートは安易な⾔葉として使えそうであるが、実際は述べられているように新しい可能性の呈⽰や、また考古学的な忘れられた可能性を探究することにしか使えないような限定的な⾔葉であるように感じる。またここには商業的であるかそうでないかでかなり視点が違う議論があるだろうが、商業的なメディアの利点とアートにおけるメディアの利点はその違いを意識しておかないといけないだろう。