“他人”はどこまでか

最近はいろんなことに追われている気がします。
やるべき事も多いのですが、その割に集中できないような日々が続いてしまいます。
そんな中、心を養うためにたまには難しいことを考えてみようかなと思いました。

 
自分にとっての他人はどこまでかということです。
哲学的で答えのない題ですが、様々な人がそれぞれの答えを出しています。
自分にとっての答えを見つけたいですね。

独我論というものがあります。
平たく言うと「この世で存在が保証できるのは自分だけであり、その他の存在は曖昧である」です。
例えば、僕が話している相手Aさんは楽しく自分に話しかけているが、本当は自分が作り出した幻なのではないか、ということは誰にもわからないのです。

他人の存在を支持できる方法としては、類推です。
自分が眠たいとき、ベッドに行って目をつぶりますよね。そこで他者を見るとその人もベッドに行って目をつぶっている。
「眠そうだな」と感じるはずです。
自分が自分の意思で眠るという行動を起こせるなら、この人も自分の意思で寝ようとしているのではないかと類推できます。

この2つの要素が他人と自分をどう存在せしめるか、悩ませるのです。
さて他人が存在するとして、どの範囲が他人なのでしょうか。
恐らく恋人に「オマエは他人だ」と言うと怒るでしょう。
他人と言われると、突き放された気がしますね。一歩距離を置いた存在が他人なのでしょうか。
では恋人は自分と同等とすると、それも何か違います。
自分は唯一の存在ですから…。

 
中学に入り、長い通学時間を耐えるために僕は沢山の本を読みました。
その中にあった自分と他人の考え方を引っ張ってきます。僕の基本となっている考えです。

簡単に言うと一人称的に「自分から見えているモノ(意識)はすべて自分の範囲内」です。
もう一つ、三人称的に「存在を考える上では、自分の体と意識意外はすべて他」です。
僕の中では自分以外の存在はすべて距離のある他人、です。親や恋人はその距離がとても近いだけで、他人です。
しかしながら、自分の意識内にあるので自分の行動次第で他人を変えることはできると思っています。
お互いが、その人の意識内で影響を及ぼし合っている、そういう構造です。

 
この問は非常に難しく、答えはありません。
人それぞれの考え方があっていいと思います。否定も肯定もできない世界と考えています。

とりあえずここまで。