犬を犬だと言う男

昔から犬をみると「犬だ」と感想を言います。猫も同様です。この間その件で変だと言われたので弁解させて欲しいです。

もちろん、犬を見たときに「かわいい!」と言うことが一般的なのは分かりますし、実際かわいいと思っています。しかし犬はかわいいだけではない。しかし「かわいい」はかわいい以上の意味を含むことができないのです。言い換えるといくら日本語が曖昧な言語だったとしても「かわいい」は「かわいい」に縛られます。

凜としていたり、辛そうだったり、寝そうになっていたり、呆気に取られていたり様々な表情を見せる犬をただその時間に限定したかわいいという言葉にしてしまうことはもったいない。もっと、広く、大きく、犬をとらえるべきなのです。

犬には様々な表情を見せる可能性が存在しています。A時点でかわいい動作をしていても未来のB時点ではきっとボーッとしてますし、過去におけるC時点ではおそらく暑そうにしていたでしょう。あらゆる時点の可能性を包含して犬と表さねば、全体的な意味での犬の感想にはなり得ません。人は現在の時間のみに依存して生きているのですか?違うでしょう。そもそも時間の概念は人間ありきなのです、動物からすれば時間の概念など人間に都合の良い迷惑なのかもしれません。

逆に無機物には「鉄だね」などは言いません。遙か長い年月をもって評価しない限りある程度不変であるからです。ルーブル美術館のガラスのオブジェを見て美しいと評価できるのはここにあるわけです。難しいところは例えば草間彌生のカボチャのオブジェ、これはかわいいとも不気味とも、様々な評価を受ける可能性があります。こういう場合は「カボチャだね」と表現することが多いです。

語彙力の欠如などいろいろ言えますが、ものの様態などいくらでもなんとでも言い表すことが出来ます。その人の感性ですから。ある意味でその感性の可能性を自分から発信するのでは無く人に解釈を任せる、ここに自分は重点を置いているのです。